ヤマ・ニヤマ、できてますか?

アシュタンガヨガにおけるヤマ・ニヤマ

先日この言葉を聞いて、驚きました。

シャラート先生がヤマ・ニヤマについて口酸っぱく言っていらっしゃるのか、皆様は考えたことがありますか?

アシュタンガヨガにはまだ数年とは言え
自分なりに少し学んできたつもりです。
が、ヤマ・ニヤマの重要性をシャラート先生が
徹底的に説かれていることは存じ上げてなかったです。
ふと思いました。
そもそも練習をする中で
ヤマ・ニヤマの話を日本の先生から聞く事自体があんまりなかったなと。

なぜ、ヤマ・ニヤマがあまり日本では言われないのか?そして我々にとってヤマ・ニヤマが必要な理由を考察したいと思います。

なぜ、ヤマ・ニヤマの話を聞かないのか?

  1. 日本ではカンファレンスの時間がほぼない
    インドの総本山(マイソール)では午前プラクティス、午後カンファレンスと分けられています。対して日本ではプラクティスで終わることが圧倒的に多く哲学の時間が少ないと感じます。
  2. 知識をインプットするよりも身体で理解させるという考えが先行
    もちろんそうではない先生もいらっしゃると思います。
    ただ、Practice and all is coming を練習の積むのが重要と考えている
    先生が多いのかな?と私は感じていました。
  3. 日本特有の文化・宗教的アレルギー
    日本においてヨガの哲学を語ることははっきり言ってリスクありです。
    理由は日本では宗教に対して警戒心を持つ方が多いから。
    もし哲学を語る中で例えば神への献身などが出てきたら…
    このヨガやってて大丈夫かしら?洗脳されないかしら?と
    警戒されると思います。
    また、ヤマ・ニヤマの考えも日本で割と馴染んでいるものがあります。
    嘘をつかない、盗まない、など日本では当たり前のこと。
    それを改めて伝えると、この先生神とか言ってるし、
    しかも当たり前のことだし何言ってるん?
    と思われてしまうのではないでしょうか。

では日本人はヤマ・ニヤマを学ばなくてよいのか?


いいえ、そうではないと思います。
むしろ日本人は表面的にできているからこそ、改めて学ばなくてはならないと感じます。
なぜか?

  • 日本人は世間体からの圧力で「そうしているだけ」
    (つまり心からそう思っていない)
  • 和を乱さないための文化が発達しすぎている
  • 道徳が発達しているがため、周囲から与えられた道徳を能動的に行っているだけで「選択的な道徳」を行っていない。

1つ目について。
例えば、我々日本人は「何かを盗まない」ことは当たり前ですよね。
しかし、理由は「人として恥ずかしいから」「周囲の人に迷惑をかけるかもしれないから」等外圧の内面化であることが多いです。
ヨガにおけるアステヤ(不盗)の実践は、「自分はすでに満たされているので、他人のものを欲する必要がない」という「欠乏感の克服」のために行います。
日本人は「行動」はクリアしていても、「心(マインド)」が満たされていないケースが多いのです。

2つ目について。
「空気を読む」ことに長けた日本人は、無意識のうちに「自分の本当の心(本音)」を無視したり、蓋をしたりすることに慣れすぎています。
アシュタンガヨガで、体が悲鳴を上げているのに「大丈夫です」と言って
練習を続けるのは、日本的な美徳(我慢・調和)かもしれませんが、
ヨガ的には「自分自身への嘘(Notサティヤ)」であり、「自分への暴力(Not アヒムサ)」です。

日本人に必要なのは、「社会的な嘘をつかない」ことではなく、「自分自身に対して嘘をつくのをやめる」という教えではないでしょうか。

3つ目について。
システムが整いすぎている日本では、「思考停止していても、清潔で安全に暮らせてしまう」から、その人の資質に依らずだれでもできてしまいます。
「意識的な選択」としてその行為を行っているか?
それはあまり意識に上がってこないのではないかと思います。

ではどうすればいいのか?

まずは自分がヤマ・ニヤマを心から行っているか、自分に語りかけてみましょう。
できていれば、今はよしとし、ことあるごとに振り返りを行う。
そんな小さいところから一緒に始めてみませんか?
私自身、まだまだできていないところが多いので、
これから気づきを増やして学びを深めていきたいと思います。

コメントいただけると嬉しいです!

あなたはヤマ・ニヤマを実生活に取り入れていますか?
もしよければ、コメントで教えてください!

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